トリコ夢

手無し娘
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11.決別





時折どくんと波打つ血潮を抑えて、噛み締めるは娑婆の甘い一時。
巨体からは想像し難いあたたかい香りが部屋いっぱいに広がり、吸い寄せられる。
あたたかい家庭そのものの香りが愛おしくてたまらなくて、呼ばれてもいないのにリビングへと顔を出した。
母親のごはんが待ちきれずに覗き見をする子供のような仕草に、男は優しく微笑み手招く。
心が、弾んだ。


「…今日は、なんですか?」
「うん、今日は小松君のセンチュリースープを僕なりに再現してみたものだよ、ほら」
「…すごい。すごく透き通っていますね」


小松の提案したそれとはもちろん比べ物にはならないが、ココの作ったスープもなかなかの透明度を誇っている。
周囲には数々の食材の香りが充満し、食欲をそそった。
スープに使用された食材は全て、リンが出かけている間にココが捕獲した食材ばかりだ。どこか誇らしげに胴鍋の中で踊っている。
ココに促され、テーブルの席に着いたリンであったがどこか気持ちは落ち着かない。手足がぶらぶらとテーブル下で揺れた。
質素な部屋だ。何度見渡してもそう思った。
かつて己が過ごした部屋はゴミの堆積する不潔な路地であったり、煌びやかな天蓋の下であったり天と地ほどの差があったように思う。
けれどどれも誂えられたその場限りの情景であり、そこから主が思い浮かぶことなどなかった。
この素朴な部屋は暮らすには不便が溢れている。けれども、なぜかリンにはあたたかい象徴そのものだったのだ。


「さあ、できたよ」


ことん、と器が目の前に差し出される。ふわりと上がる湯気と香りが鼻をかする。
手を合わせ、感謝を述べてスープを口にした。もちろん、味は、分からないけれど。

「…うん、小松君のスープには程遠いね」
「……私には味は分かりません、でも」


ココさんらしい味がする気がします。
そう告げれば、虚を突かれた表情を見せたがすぐに優しく微笑んだ。
スープを飲み干した後、いくつかの料理とメインとを差し出されどれも適量口にした。
たわいもない話を交わし、微笑みあう。感じたことのないあたたかさに戸惑いながら、それでも終始二人は笑顔であった。
離れたくない、この人と共にありたい。決心が、そう、鈍ってしまうほどに。








「――――ココさん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」


扉が閉まる。ココの姿が完全に消えた。
いつもならば眩しいくらいに瞬く星は、厚い雲に覆われ姿を見せない。
部屋の外、キッスの姿を伺えば既に眠りの世界に入っているようで微動だにしない。どこかいつもよりも家に寄る形で休んでいるのはこの生憎の天候のせいかもしれないが、リンにとっては好都合であった。
おそらくあと数時間もしないうちに雨が降るだろう。
そうなればこちらの計画も実行が困難になる。リンはそっと時計に目をやり、空の様子と見比べた。
――――計画に支障は、ない。
さよならのカウントダウンが始まった。


かちりと時計の針が深夜を告げる。人里から離れたこの家は完全に静寂と漆黒の夜へと沈んでいる。
最小限の荷物を詰め込んだ鞄を持ち、ゆらりリンは窓際に立った。木枠と、露に濡れるガラスの埃臭さが香る。
雫の向こう、滲んだ視界の先に合図が見え、静かに部屋を出ていく。机の上には簡素な言葉を綴った手紙を添えた。
新しく職を見つけたこと。急な話で挨拶も出来ないまま去ることを許してほしいということ。
そして、手紙の末に綴った恋い慕った気持ち。気付いてほしかったと、名残の心を綴ったその手紙を、去り際に振り返る。
曇天の空はそれでも部屋よりは明るく、机の上の手紙をぼんやりと浮かび上がらせる。リンを思い止まらせるには十分であった。


「(未練がましい…)」


立つ鳥跡を濁さず――――断ち切らねばならない。最後の最後まで爪あとを残そうだなどと、なんて薄汚い精神なのだろうか。
胸を渦巻く闇に蓋をする。
開封した手紙の半分から下を千切り、ポケットに詰め込んだ。
知らなくていい。どうせ叶わぬ夢に浮かれていただけなのだから。


「(…さようなら、ココさん)」


消え去るように。
足音なくリンはココの家を去って行った。


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